フォーカスするということ
ここ1週間ぐらいで、同じことを2,3度思うことがあった。シチュエーションは違うものの、至った考えが同じシーン。
それは、「本当に大切にしたいことのために、他のほとんどを捨てないといけない」ということ。
それは、「本当に大切にしたいことのために、他のほとんどを捨てないといけない」ということ。
もっと言うと、年に何度も思うことでもあって、特に物事のコンセプトを考える際にそう思うことが多い。
自分は、かわいい。だから、自分の実現したいこと、訴えたいことは、すべて大切にしたいと思うのは当然だ。
一方で、もしそれを自己満足で留めたくないのなら、世の中に認めてもらう必要がある。
ただ、その世の中はたいてい、自分や自分たちのことには関心がない。また、自分がよいと思っているほとんどのことは、たいてい世の中にとっては価値がない。
一方で、もしそれを自己満足で留めたくないのなら、世の中に認めてもらう必要がある。
ただ、その世の中はたいてい、自分や自分たちのことには関心がない。また、自分がよいと思っているほとんどのことは、たいてい世の中にとっては価値がない。
そのため、世の中に認知され、価値を認めてもらうためには、いくつもある大切なものから1つだけ、筋の良い物を選んで、わかりやすさと柔軟性をもたせる必要があると思う。
例えば、「美味しいコーヒーを、良い立地で、緑のあふれる空間で提供したい」というコンセプトがあるとする。
仮にこれが総花的でわかりにくいもので理解されないとしても、そのなかでいちばん大切にしたいものは「良い立地」で忙しいサラリーマンにコーヒーを飲んでもらいたいということだと決められていれば、もしかしたら多少味は犠牲にしたとしても、もっとコンセプトにエッジを立てて、「すべてのオフィスに低価格でデリバリーする」というスタイルで成功できるかもしれない。
仮にこれが総花的でわかりにくいもので理解されないとしても、そのなかでいちばん大切にしたいものは「良い立地」で忙しいサラリーマンにコーヒーを飲んでもらいたいということだと決められていれば、もしかしたら多少味は犠牲にしたとしても、もっとコンセプトにエッジを立てて、「すべてのオフィスに低価格でデリバリーする」というスタイルで成功できるかもしれない。
その時には、自分がいちばん大切にしたかったものは、守られているのだ。
と、ここまで書いたところで、あれって総花的だなと思うプロジェクトが思い浮かんだので、フォーカスし直さないとな。
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