果たして、佐村河内氏による『FAKE』なのか?
一部で話題の、『FAKE』を鑑賞した。
週刊誌とワイドショーで騒がれた佐村河内氏に、事件から(確か)7,8ヶ月ほど経ったタイミングで密着取材したドキュメンタリー映画。
"悪役"としての役割をメディアから付与されていたもともとのイメージからは結びつかないような彼の人柄が一貫して滲んでいて、印象的だった。
これは、そもそも”ゴーストライター”問題だったのか、という投げかけから始まる。
タイトルの『FAKE』は、当然、彼によるFAKEなのだと思いこんでいた。しかし、それは全くの誤解で、では一体誰による(あるいは全員の)『FAKE』なのかと、錯乱させられるのだ。
日頃から、マス・メディアの生態や”真実”について気になっている人にはおすすめしたいし、
特に、音楽と向き合う、という視点からも、音楽を生業にしている人には、ぜひ見てもらいたいと感じた。
言葉を尽くしたい人の言葉を”編集”したものしか触れていない人が失った”何か”を取り戻させてくれる作品。
いまは、東京だと阿佐ヶ谷で上映中のようだ。
http://www.fakemovie.jp/theater/
そして、強く問題意識として感じたことは、こういったドキュメンタリー映画に、都会(せめて県庁所在地)にいないと、アクセスできないということだ。(実際、僕の地元の鹿児島では上映がないようだ。)
スイッチひとつ、タップひとつでイージーにアクセスできるテレビやネットのみが情報源となる人々にとっては、そこからの情報(データとして、だけでなく、そこから発せられる態度や行間も含む)がそのまま”真実"となってしまう。
イージーな情報源の対となるには、この映画のような情報は”流通”が弱すぎる。
それは、エンタメに対する芸術、といった構図でも同じかもしれない、とも思う。
以下ネタバレ注意
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映画の中でとりわけ僕の印象に残っているのが、曲を作り終えた彼が、監督からの「よい曲だった」という評価に、嬉しそうにお礼を言ったシーンだ。あれは、演技ではできない。
彼は、本当に音楽が好きなのだろう。
ただ、彼は正直すぎて、正確であろうとしすぎて、いろんなものに負けてしまったのだと思う。
ちなみに、彼が作った最後の曲、あれを聴くと「やっぱ書けるんじゃん、今までの曲も全てからが書いたのか?」と思う人もいたかもしれないが、
過去に彼が発表した曲と今回の曲はやはり別物(出場している"競技"が違うイメージ)で、やはり過去のものは新垣氏の手助けなしには書けなかったものだと思う。
誰が書いたのか、という問題については、ほぼ100%新垣氏なのか、それとも原案を生んだ佐村河内氏が50%書いたことになるのか、そこが論点。
(ちなみに、著作権としては100%佐村河内氏で、そこは新垣氏も同意しているようだ。なので、佐村河内氏のJASRACへの提訴も妥当。)
本当に耳が聴こえないのか、という問題については、彼は聴こえていないというのが僕の今のところの所感。
いろんな問題が絡んでるところが、この事件を分かりにくく(かつ、ネタにされやすく)している部分でもある。
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