オキュラスリフト、バーチャルシフト。
知人の方、技術者の方のご好意で、話題のオキュラスリフトを体験させてもらうことができた。
(天川さん、晴子さん、ありがとうございます!)
眼前にある映像が自身の頭の動きにあわせて360度動く、という映像機器だが、
単なる映像機器というより、ヴァーチャル・リアリティの入口となるデバイスだ。
現状、多少の動きのズレや解像度の粗さなどはあるものの、その没入感はすさまじかった。人間が受け取る情報の大部分を占める視覚を制御されると、簡単に錯覚させられることを実感する。
これに、既存のオーディオ技術や、センシング技術が組み合わされば、かなり精度の高いヴァーチャル・リアリティ体験が(安価に)できるようになるはずだ。
体験の際、初期型と改良型(開発キット2)の双方を試すことができたのだが、何より驚いたのがその進化の早さだ。まだ3年と経っていないプロダクトだが、その間にかなりの速度で改良が進んでいることがわかる。この速度から次の進化の早さを予測すると、未来は遠くないと思う。
すでにdwangoとNTTが共同で研究しているみたいだけれど、(ベタな言い方だが)あたかも、ライブ会場にいるような臨場感を自宅で味わえるようになるのは、おそらく5年もかからないのではないだろうか。
そうすると、ライブの役割ってなに?ということになる。
そもそも、CDが登場し、ハイレゾになり、それがオンラインで流れ、という進化が進んでいる現在でも、その意義が問われる状態だろう。
単純に「良い音楽を聴く」という役割はオーディオで事足りるようになり、そこにライブ感まで味わえるような技術が登場(登場だけでなくその普及もおそらく早いはず。オキュラスはそんなに高い部品は使っていない)すれば、ライブの価値はより限定されたものになる。
そこに残るのは、「生身の人間が物理的にそこにいる」というただそれだけの価値だろう。
ライブに行くということが、音楽を聴く、という行為でなく、人間に会いに行く、
しかも、ただの人間ではなく、より人間らしさ、生命力、そういったものを音楽によって発散している人間に会いに行くのが、究極的なライブの意義になるのではないだろうか。
完全にそれを擬似体験(例えば、微妙な汗臭さとか、握手したときの体温とか)させるだけの技術が発達すればまたフェーズも変わってくるだろうが、しばらくは現実とバーチャルの境目は残るし、残るとすればそのあたりだろう、ということだ。
特に、日本におけるクラシック音楽に関しては、既存のライブが担ってきた役割がかなり失われつつあると感じている。そのあたりはまた次のエントリーで。
各々がヴァーチャルに没頭!の図。
0コメント